2020.09.30 Study

古典のススメ 「徒然草」

古典のススメ 「徒然草」

みなさんは古典って好きですか?
「好き」という人もいれば、「苦手」という人も多い科目ですよね。
苦手な理由は、古文単語が難しくて何を書いてあるのか理解できない、という人が大半のように思われます。
しかし、古典には面白い話がたくさん!
一度理解すればすらすらと読めてしまうものがたくさんあるんです。
このシリーズでは、そんな古典文学についてご紹介していきます。

徒然草

今回はみなさんご存知の「徒然草」をご紹介します。
徒然草は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官人・遁世者・歌人・随筆家である吉田兼好(兼好法師)が書いた随筆で、「枕草子」「方丈記」と並び、日本三大随筆の一つに数えられる作品です。

「つれづれなるまゝに、日くらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ」

訳:孤独にあるのにまかせて、一日中、硯と向かい合って、心に浮かんでは消える他愛のない事柄を、とりとめもなく書きつけてみると、妙におかしな気分になってくる。

という冒頭はあまりにも有名ですよね。

吉田兼好の人生観

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吉田兼好が生きたのは、朝廷が南朝と北朝に分裂し、各地で争いが繰り返されていた南北朝時代。「徒然草」第59段では「無常の来ることは、水火の攻むるよりも速やかに、遁れがたきもの」として、避けられない人間の死を「無常」と捉えて出家を重視し、無常の人生を厳しく見つめていました。
兼好にとって人生というものは無常であり、だからこそ、儚いものに美を見出し続けたのかもしれません。

ここで、兼好の美意識が現れた段をご紹介します。

第19段「折節のうつりかはるこそ」

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折節の移り変るこそ、ものごとにあはれなれ。

 「もののあはれは秋こそまされ」と人ごとに言ふめれど、それもさるものにて、今一きは心も浮き立つものは、春のけしきにこそあンめれ。鳥の声などもことの外に春めきて、のどやかなる日影に、墻根の草萌え出づるころより、やゝ春ふかく、霞みわたりて、花もやうやうけしきだつほどこそあれ、折しも、雨・風うちつづきて、心あわたゝしく散り過ぎぬ、青葉になりゆくまで、万に、ただ、心をのみぞ悩ます。花橘は名にこそ負へれ、なほ、梅の匂ひにぞ、古の事も、立ちかへり恋しう思ひ出でらるゝ。山吹の清げに、藤のおぼつかなきさましたる、すべて、思ひ捨てがたきこと多し。

 「灌仏の比、祭の比、若葉の、梢涼しげに茂りゆくほどこそ、世のあはれも、人の恋しさもまされ」と人の仰せられしこそ、げにさるものなれ。五月、菖蒲ふく比、早苗とる比、水鶏の叩くなど、心ぼそからぬかは。六月の比、あやしき家に夕顔の白く見えて、蚊遣火ふすぶるも、あはれなり。六月祓、またをかし。

 七夕祭るこそなまめかしけれ。やうやう夜寒になるほど、雁鳴きてくる比、萩の下葉色づくほど、早稲田刈り干すなど、とり集めたる事は、秋のみぞ多かる。また、野分の朝こそをかしけれ。言ひつゞくれば、みな源氏物語・枕草子などにこと古りにたれど、同じ事、また、いまさらに言はじとにもあらず。おぼしき事言はぬは腹ふくるゝわざなれば、筆にまかせつゝあぢきなきすさびにて、かつ破り捨つべきものなれば、人の見るべきにもあらず。

 さて、冬枯のけしきこそ、秋にはをさをさ劣るまじけれ。汀の草に紅葉の散り止りて、霜いと白うおける朝、遣水より烟の立つこそをかしけれ。年の暮れ果てて、人ごとに急ぎあへるころぞ、またなくあはれなる。すさまじきものにして見る人もなき月の寒けく澄める、廿日余りの空こそ、心ぼそきものなれ。御仏名、荷前の使立つなどぞ、あはれにやんごとなき。公事ども繁く、春の急ぎにとり重ねて催し行はるるさまぞ、いみじきや。追儺より四方拝に続くこそ面白けれ。晦日の夜、いたう闇きに、松どもともして、夜半過ぐるまで、人の、門叩き、走りありきて、何事にかあらん、ことことしくのゝしりて、足を空に惑ふが、暁がたより、さすがに音なくなりぬるこそ、年の名残も心ぼそけれ。亡き人のくる夜とて魂祭るわざは、このごろ都にはなきを、東のかたには、なほする事にてありしこそ、あはれなりしか。

 かくて明けゆく空のけしき、昨日に変りたりとは見えねど、ひきかへめづらしき心地ぞする。大路のさま、松立てわたして、はなやかにうれしげなるこそ、またあはれなれ。

徒然草 第十九段 より引用

現代文

巡る季節に心が奪われてしまう。

 「心が浮き立つのは秋が一番」と、誰でも言いそうで、そんな気もするが、心が空いっぱいに広がるのは春の瞬間だ。鳥の鳴き声は春めいて、ぽかぽかの太陽を浴びた花畑が発芽すれば、だんだん春も本番になる。霞のベールで包まれていた花々の蕾が少しずつ開きかけた刹那の雨風に花びらは彗星のように散っていく。桜が毒々しく青葉を広げる頃まで、様々なことにふわふわして切ない。「橘の花の香りは昔のことを思い出す」という短歌もあったが、やはり梅の香の方が、記憶をフラッシュバックさせ、恋しく切ない気持ちにさせる。山吹の花が青春時代のように咲き乱れ、藤の花がゆらゆらと消えそうに咲いているのを見ると、記憶を忘却すること自体もったいなく感じる。

 「釈尊の誕生日の頃、それから葵祭りの頃、若葉の梢が涼しそうに茂っている頃になると、世界との関係を思って人恋しくなり心臓が破裂しそうだ」と誰かが言っていたが、本当にそうだと思う。端午の節句に菖蒲の花を屋根から下げる頃、田植えをする頃、クイナが戸を叩くように鳴き叫んだりして、心細くさせないものは何一つとしてない。六月、荒ら屋に夕顔の花が白く見え隠れする陰で、蚊取り線香の煙がゆらゆら揺れているのは、郷愁を誘う。六月の最後の日に水辺で神様に汚れた世間を掃除してもらう儀式は、不思議で面白い。

 七夕祭りもゴージャスだ。だんだんと夜が寒くなる頃、雁が北の空から鳴きながら渡ってくる頃、萩の葉が赤く染まる頃、最初の稲を刈って天日干しにしたりして、心奪われることが一遍に過ぎ去っていくのは、秋の季節に多い。大地を切り裂く秋風の翌朝は、これも不思議な気分がする。このまま書き続ければ『源氏物語』や『枕草子』に書き尽くされた事の二番煎じになるだけだが「同じことを二回書いてはいけない」という掟はないのだから筆にまかせる。思ったことを言わないで我慢すれば、お腹がふくれて窒息してしまうに違いないからだ。筆が自動的に動いているだけで、ちっぽけな自慰のようなものであって、丸めてゴミ箱に捨ててしまうようなものだから、これは自分専用なのである。

 ところで、冬の枯れ果てた風景だって、秋の景色に劣ることもない。池の水面にもみじの葉が敷きつめられ、霜柱が真っ白に生えている朝、庭に水を運ぶ水路から湯気が出ているのを見るとわくわくした気分になる。年が暮れてしまって、誰もが忙しそうにしている頃は、特別に煌びやかである。殺風景なものの象徴として、誰もが見向きもしない冬のお月様は、冷たく澄みわたった二十日過ぎの夜空で淋しそうに光っている。宮中での懺悔や断罪、墓参りの貢ぎ物が出発する姿は、心から頭が下がる。宮中の儀式が次から次へとあり、新春の準備もしなくてはいけないのは、大変そうだ。大晦日に鬼やらいをし、すぐに一般参賀が続くのも面白い。大晦日の夜、暗闇をライトアップして、朝まで他人の家の門を叩いて走り回り、何がしたいのかわからないけど、「ガー、ピー」と騒ぎ立て、蠅のように飛び回っている人たちも、夜明け前には疲れ果てて大人しくなり、年が去っていく淋しさを思わせる。精霊が降臨する夜だから鎮魂をするということも、もう都会では皆無だが、関東の田舎で続いているのだから感激だ。

 こうして、元旦の夜明けは、見た目に普段の朝と変わりないが、状況がいつもと違うので特別な心地がする。表通りの様子も松の木を立てて、きらきらと嬉しそうに笑っているから、格別である。

徒然草 第十九段 より引用

この文章を見ると、吉田兼好の繊細な感情が分かると思います。
秋は紅葉を見にたくさんの人が訪れますよね。
特に京都は紅葉の名所が多いですから、東福寺や永観堂、清水寺などはどこも人でいっぱいになります。
しかし、吉田兼好は春が一番心浮き立つ、と感じているのです。もちろん、現代人もお花見などをして桜を愛でることは多いですが、吉田兼好が注目しているのは桜ではなく、鳥の声や春の光、橘や山吹の香りなど、春の生活全てなのです。
日常の何気ない美しさに気づく目を持っていた吉田兼好だからこそ、情緒深く、美しい文章が書けたのかもしれません。

古典と聞くとどうしても難しく考えがちですが、一度読んでみると現代を生きる私たちにも共感できることがたくさん書かれています。
学生は普段の勉強や部活、アルバイトなどでせわしない日々を送っているかもしれませんが、一度ゆっくりと自然の美しさに目を向けると、心がほっとやわらいでリラックスできるのではないでしょうか?

吉田兼好が徒然草で描いたのはそんな日常の何気ない一コマ。
通して読むと、吉田兼好の人生観をじっくりと知ることができるのでおすすめです。
吉田兼好の使っている言葉は平坦なものが多いので、古文の勉強にもなりますよ!

古典が苦手な人も、ぜひ読んでみてくださいね。



参考:小学館「日本の古典をよむ14 方丈記・徒然草・歎異抄」神田 秀夫 (翻訳), 永積 安明 (翻訳), 安良岡 康作 (翻訳)

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